昭和43年9月10日朝の御理解第7節


 唯今から、昭和43年9月10日朝の御理解を頂きます。
X御理解第7節、天地金乃神は昔からある神ぞ。途中から、出来た神でなし。天地ははやことなし。はやることなければ、終わりもなし。天地明の心になる事、肝要なり。信心はせんでも、おかげはやってある。

 天地金乃神は昔から、ある神ぞ。途中から出来た神でなしと。
 これは、段々信心を頂いて話しをしておられる。いわゆる天地の道理と言うか、天地の道ありと言いますが、その天地にある道を極めさせてもらうという。それから、人間の幸の道が開けてくる。けれども、天地金の神の御性格というか、お道の信心によっていわゆる教祖の御信心によって、これほどに親切にこれほどに分かりやすく天地の神様の御性格が現れておられる宗教は、外になかろうと、思います。いわゆる、教祖の神様の御出現によって初めて天地金乃神のおかげを受けられるようになったといわれるのも過言ではない。天地の働きを余すことなく頂けるようになった。天地の働きを余すことなく私どもに分からして頂けるようになった。それまでにたくさんの色々な宗教があったわけですけれども、それは、天地に確かに道があるとだから、その道を確かにそれぞれ説かれて訳ですけれども、天地の親神様の御性格と言うかですね。天地のいわゆる自体と言うものをこれほど迄に説かれ、明かされたのは、教祖の他になかろうかと私は思います。例えば、信心は親に孝行するも同じことであると行ったような言葉で天地と人間氏子の関り合いと言うものをとかれたんですからね。それが、この経典のいわゆる随所にそれを感じることが出来ます。ただ天地の働きの一部を知ったり、一部を悟ったり、分かったり、それだけでも例えば、人間が幸せになれるといったような風に説かれたんです。言わば、金光教の出現する以前の宗教であったと言うか、であったと言うふうに思いますね。確かに天地金乃神はもう天地の始め、いわゆる昔からある神である。しかも天地はその時々によって変わって行くのではなくて流行ることがない。故に又終わりもない。はやることもないから、終わりもない。そういう神様のおかげをいよいよ頂かして頂くために一番最後の所におかげはせんでもおかげはやってあるとおっしゃる。これは、生きとし生ける者がその天地の御恩恵をよくしないものはないのです。いわゆる、おかげはまさしくやってあるのである。けれども 御恩恵を御恩恵と悟らず、天地の大恩は天地の大恩とは知らず、天地に対し、無礼致しと言ったようなことから、人間の難儀がある。天地の御恩恵を御恩恵として、明らかにして下さったのが教祖様、例えば、御地門をみだりに*すなよというお教えが、他の宗教にあると聞きませんですね。天地の御恩恵が分かれば、分かるほど、天の恵みは説いても地の御徳を受けてものはなかった。御地門をみだりにけがすなと言うことは唯汚いもので汚したと言うだけではなくてね。汚したという小さい意味合いもありますけれども、それだけではなく、いかにも天に対する地というものは、汚れたのも、汚いものと言うたよう、私はものとして皆が感じておった。頂いておった。教えられておった。そういうものでなくて、その大地の御恩徳というものが、なからなければ、実は本当の人間、いわゆる、幸というかおかげと言うものは頂けんのだ。だから、大地の御恩徳に対して、天に対する恩を知るならば、天の恩を知りて、地の恩を知らぬ事とこうお教え下さる様に天地の大恩を教祖様はお説きになられたわけですね。そこで、ここで流行ることも無し、終わることも無しと言うことになるのですから、ここは、いわゆるそういう天地の相まった御恩恵、御恩徳と言うものをですね。いうならば、説明しておられる。天地と道があるから、その道を分からしてもらうということもそうなんです。けれども、その前にまず、天地の道を分からして頂く前に先天地明の心になること、寛容だとくだされてある。天地明の心になることがまず第一だ。如何に天地の道を知ってもその天地の道をこうじてもですね。こうずるものの心の状態が、天地明の心から、はずれてたら、それは本当の事になってこないのだ。天地明の心とは、どう言うようなことかとここんところもですね。もう教祖様ほどそのものずばり説いておられ、自分がこうじておられる方はないと思いますね。いわゆる実意丁寧、神信心、もう天地の心そのままに天地ほど正確、無比のものはない。一分一厘、それこそ、一分一秒も間違いがない。休むことがない。これほど、いわば、実意であり、丁寧なものはない。天地がそのようにです。正確無比である。そこにその人間凡夫のことでございますから、相分からず、どこにお粗末、ご無礼があるか分からないからと言うて、少しでもわがまま横着というものが、あっちゃならんと言うところに精進の焦点をおかれた。天地明の心というのは、実意丁寧な心となるので、栄枯盛衰は世の習い、いわゆる天地の道を知り、天地の道をわきまえた、まあ、先見とでも申しましょうかね。私たちもそこに栄枯盛衰を認めなければ、出来なかったものです。天地の道は知っておるけれども、天地の心は知らなかった。だから、心に外れて生き方をするから、同然の事のように栄枯盛衰と言うものがあった。栄枯盛衰というのは、栄えたり、衰えたりと言うことである。お父さんの時代は飛ぶ鳥を落とすような繁盛をしたんだけれども、子供さんの時代になったら、段々寂れて行く孫さんの時代になったら、もうなくなってしもうた。そして、そこの家で番頭さんをしようた人が、大変な財産家になってと言うようにいわば、それが世の常であったり、前だともうあきらめてしもうておったと言う感じですね。日本中人間全部がそれは、天地に道があると言うようなことを教えられたけれどもね。天地の心をもうそれこそ心憎いまでに教祖の神様は頂かれる。その天地の心を心としての生き方を実意丁寧、神信心と言う言葉で表現して身を持ってその実意丁寧、神信心をこうじぬかれた。ですから、本当に栄枯盛衰と言うものはあるもんじゃあない。本当はもう親の代より、子の代、天地と共に窮まりなく幸せと言うものは広まっていかねばならんのだ。親の代より子の代、子の代より孫の代と言うように繁盛していかなければ、いけないのだ。けれども、天地の心を欠くところに実意丁寧を欠くところにいわゆる見易う言うなら、お気づきを頂いていたい思いをしたり、いわゆる栄枯盛衰、繁盛しておったのが、又衰えていてしもうたり、と言うことになってくるのです。ですから、如何にいわゆる天地明の心になることが、肝要だ。一番大切だと言うておられる。そこで天地を知り、地の心が分かり、明の心を身につけて行くと言うことがです。どんなにありがたい結果を生んで行くかと言うことが分らしてもらう。いよいよ実意丁寧、神信心を身に付けて行かねばいけないということです。私は昨夜遅うなり非常に熱心に遠方から、毎日日参してこられる婦人が、理解力もある。最近お参りがないからということで、ちょっとお願いさせていただきよったら、そしたらですね。こうやって道を歩きよるんですよ。ところが、右の足が動きよる説きには左手が前にあげよる。左の足をあげよると左の手が上げる。歩いてみなさいどんくらい歩きにくいか。オイチニ、オイチニとですね。例えば、反対の方が動いて行くから、歩きいいとですよ。それで次から次へといわゆる私どもがいう。人間が言う難儀と言う家庭の問題、色々な問題でちぐはぐなっておった。そのちぐはぐになっているのがおかげになっておる。その反動で頂いてきよったわけです。金光様の信心はありがたいといいよったけれども喜びで解決して頂いたら、まともになってきたわけですね。だから、まともになってきた。右なら、右のほうに上ってしまう。左の方なら、左の手をあげよる。だから、本当に言うたら、信心の道をいよいよ難しい事になってしまう。いわゆる信心がです。信心はなかなか難しい見易いと言いなさるばってん、なかなか難しいという事になってしまう。皆さんが大きな願いを持つとか、おかげを受けなならんと言うときに磨かなならんと信心は、出来んとですよ。だから、なら繁盛が繁盛のおかげを頂いて行くようなおかげを頂いてもその例えば、ね。その動機と言うかね、天地の心と言うか、それを分からしてもろうてそこを正確無比な働きを私どもに見せて下さるのですから。それを、神習わして頂く。お天とう様が一日でもお休みなしに私もの家にお与えくださるのだから、天とう様のお働きを頂いておるのに私どもは休むわけにはいかんと言うふうに教祖はおっしゃっておられたわけですね。天とう様に対して相すまん。おかげを頂いて段々身しのぎが出来るようになる。段々信心が向上してくると身しのぎの出来る信心になれよとおっしゃる。自分の事ぐらいはお伺いが、出来たり、お願いできたり、出来るようになれる。いちいち取り次ぎ者の手をへんでもという風まで、それを解釈したら、いいと思うのですけれども、それでは結局自分の事だけがお伺いしたり、おかげを受けたり、言ったような事ではお道の信心はいわゆる繁盛になっていかんのです。それからの成長がなからなければ、それこそ、天とう様が毎日働いて下さっておられるのだから、親先生が毎日ああて御用をしておってくださるのだから、なるほど身しのぎ出来るような信心を頂いても一日じっとしてはおられん、と言うところにお互いの信心が成長していかんのですよ。毎日毎日親先生がああしてあのようなことに一生懸命お取り次ぎ下さってあるのであるから、家にじっとしておられないと言うような信心がいわゆる正確に出来て行くようなもの。信心が身につかなければです。必ず、栄枯盛衰はもう当然の事として繁盛したり、繁盛しなかったりと言うようになってくるのです。ですから、そのことが昨日も言うようにそういうことが楽しゅうなる。ありがとうなる。信心を身につけよとおっしゃる。今朝の御信心を済ませて頂いて一番に頂いたことはね。整理箱というのでしょうか。整頓する箱がある。もう部屋いっぱい雑然としておいてある。いわば、足の踏場もないような感じである。整頓させて頂くはずのきちっとさせて頂くための整頓箱がかえって邪魔になっていると言う感じなんです。これは大変なことを教えて頂く信心がありがたいのだけれども、お互いの信心がです。その信心がかえって邪魔になっておるのではなかろうか。信心頂いておらんなら、こんな朝早くおさまらんでよかばってん。信心頂いて教えをば頂いておらんならば、こげん時はこげんするけれども、教えを頂いておるばっかりにでけんというては歯を食いしばってがんばった。信心頂いておるばっかりにぼろかすに言われておると言ったようなことはなかろうか。同じく信心が邪魔になる。信心がなからねば、言うときはいうけれども、信心があるばっかりにこれへとるですよ。まるしき信心が邪魔になる。それはちょうど、整頓させて頂くための整頓箱が雑然として散らかしてあるようなもんです。そういう人が実際、たくさんありはせんかと思うて信心させて頂きます。いわゆる、天地明の心になることからでは、大変はずれておる。きちっと整頓でける。そういうところに信心させて頂く者は几帳面にならなければ、正確にならなければ、きれい好きにならなければ、本当のおかげを受けられんのもやっぱりうかがえますね。どんなにいわゆる正確無比の働きを天地が下さってもです。私どもが雑然とした信心の状態がおかげを雑然としてしまう。神様が、限りなくおかげをくださってあるそのおかげをですね。私どもが、いわば、正確にきちっと受けとめて行くためにも、私どもが如何に天地明の心になる事、肝要なり。私どもが天地明ほどにです。正確なものはない。実意なものはない。天地の心を心としてということは、そういう心を私どもの日常生活の上に表して行くと言うこと、信心生活というのは、いい加減な事をしない。天地は特殊な事はしない。そこに私どもは例えば、いうなら、きちっとした信心をさせて頂いているようであり、いいかげんなことは、しよらんようであっても、それは生身なことでありますから、そこにお粗末ご無礼やら、あるか分からんから、そこんところ平信低頭お詫びさせて頂くと言う謙虚な信心、そして出来る限りの実意を全ての事に全てのいうなら、働きの現場にそれを現わして行く。そういう信心からです。はやこともないかわりにその終わりも知らない。終わりもない天地と共にです。栄枯盛衰と言ったようなことのない親の代より子の代といよいよ子孫繁盛のおかげになっていけれる道がそこから開けてくる。信心して身しのぎ出来るようになれとこうおっしゃる。もちろん、そこんところ、なられなければ、ならない。身しのぎ出来るようになったら、もう門でおかげを受けられると言う意味じゃあない。金光様の信心は、そうやって、例えば、こうやって歩かせて頂いた右左右左と動いておる時にです。その右左と歩かせて頂くと言うことが如何にありがたいことか、如何にそれが私どもの普通の本当の*がそれであるということを信心させて頂き神恩報謝の生活をさせてもらうというだけでなくて神恩報謝のその思いが御参拝にあらわれた御用に現れて行くと言うことが如何にありたたいことかということをです。真実自分の五体でそれを体験させて頂いた信心が邪魔にならない信心が苦にならないありがたいものとして身についてくるところのおかげをです。頂いておらんと信心があるばっかりにです。その信心が整頓箱があるばっかりにです。整頓さえすれば、***、整理が出けれるのだけども、それをろくしょなことしよるもんだから、その整頓箱そのものがかえって雑然して足の踏み場のないと言うような困ったことにならなければいかん。信心がかえって邪魔になるような信心ではどうにもできません。御理解第7節はね、そういうようなことを詳しく説明してはないけれども、御理解下さっておるふうに思うのです。天地金の神様は昔から、ある神様、もうこのあたりはそのものズバリですね。天地神乃神様の御性格を言うておられます。途中から、出来た神ではない。天地には流行ることもなからない。終わりのもない。その天地の親神様のお心を心としてです。それを信心は親に孝行するも同じことじゃと言うような心の状態でしかも、それが実意丁寧に天地明の心になることが一番大事であるとして信心はせんでもおかげはやってあるというおかげをですね。それを見事に受けとめて行こうというのである。ですから、そこに栄枯盛衰があるはずがない。それを私どもがだんだん信心させて頂いてる中にそこんところに目をつけていないもんだから、その信心がいわゆる怠慢になり、言うならば、信心が邪魔になり、実意丁寧が欠いたものに、いうなら御気付がある。そのお気付けがある。それをまあ困ったことだとか、難儀なことだとか、言うなら、社会に対するなら、衰えると言う結果になるのである。そういうところをですね。よく分からして頂いていよいよ実意丁寧神信心を身に付けて行かなければ、いけない。だから、頼むだけの神様では絶対にない。金光様の御信心は親と子のたとえば、つながりというものがです。よか時だけの親子でないようにです。もうこれは切っても切れない。そこを持って親子の情を持って喜ばれて行くと言うこと。親の喜びを自分の喜びとする。神様の喜びを自分の喜びとするような信心の中からです。氏子の助かっていく姿を親になって神様が喜んでくださる。いよいよおかげがおかげを生んでいくと行くおかげを頂いて行くならば、確かに栄枯盛衰はない。親の代より、子の代と必ず、繁盛の一途をたどって行くおかげを受けられる。このおかげをば頂くまで一生懸命お参りするといったような信心ではない。初めの頃は誰でも、はしるところから、入信するのですけれども、そうしてる間に、石田さんところの宅祭を頂いたように信心の稽古をさせて頂いている間にめぐりのお取り計らいも頂き、信心の道も分からしてもらい、実意丁寧神信心が身に付いていくというところに神様の願いがあることを一つ知らなければ、いけません。どうぞ。